新時代家族 ~分断のはざまをつなぐ新たなキズナ~
平成三十年四月(初版)
総務省 未来デザインチーム
平成三十年四月(初版)
総務省 未来デザインチーム
「ハルカさん、体調が良くないようですね」
昨日、ハルカが保育園から帰宅すると、アイコはそう言った。
「あらほんと? ハルカ大丈夫?」
サトミが心配そうに声をかけるが、ハルカが保育園から帰っている途中で既に、ハルカのウェアラブルデバイスは異常を素早く察知していた。体温、血圧、呼吸の速さ、脈拍……初期診断で把握した異常を、多数のモダリティに基づき精密に診断し、「風邪」の病状をより細かなレベルで特定する。「風邪」という曖昧な名前の病気はなくなっており、センサーが豊かになっただけ、病気も非常に細かく細分化されて、治療法や薬も事細かにそれぞれに対応している。ちなみに、ウェアラブルデバイスの他にも、ベッド、トイレ、バスルームなど、生活する上で触れるものには、使用者のバイタルデータを取るセンサーが備わっていて、ハルカのみならず家族全員の体調がチェックできる。
最近の医療の進歩はすさまじい。本人が望めば、過去の診療履歴や日々のバイタルデータにゲノム情報も組み合わせて、より個人に特化した治療方針の下で医療が受けられるし、以前、ハルカの曾祖母のユキヨが胃の不調を訴えたときには、レントゲンで見つかった小さな腫瘍を、腹部にカプセルをかぶせるだけでメスを使うことなく取り除くことができたのだ。
「なんかぼーっとする」いつもの元気な調子はなくハルカが答える。
「アイコ、病院に行って診てもらった方がいいのかしら」
「その必要はありません」
主治医にバイタルデータを送りバーチャルで診察を受け、「リアルでの診断は不要」との回答を得ていた。
「そっか、とりあえず安心したわ。ハルカ心配する必要ないからね、今夜はおとなしくして早く寝て、明日の保育園はお休みしようね」
「…」
明日、サトミは会社にいかなくてはならない日だ。付いていてやれない。
「お薬は飲んだ方が良いのかしら」
バーチャルで診察した主治医の指示に基づいて、薬剤データが、ハルカのかかりつけの薬局に送られ、自動でその個人に合わせた薬剤が生成された後、ドローンで届けられることになった。その間、ハルカの体内では、生まれてすぐに体内に投与されたナノマシンが血中を行き来し、病気の元となる菌を処理するなどの手当を行っている。
「あと三〇分ほどで三日分の薬が届きます。毎食後に服用します」
「おかし、たべれるの?」
薬はハルカ好みの味に調剤されており、いつも「おかし」のように口にしているのだ。
薬を飲んで早めに寝たものの、翌朝のハルカの調子は今ひとつだった。
「昨晩の手当と薬の効果で、この先、体調が悪くなる可能性は低いでしょう。安心して出勤いただいて大丈夫です。念のため、サトミさんの端末にハルカさんの体調情報を二時間おきに送ります」
アイコには、ウェアラブルデバイスが把握する家族全員の体温や血圧などのバイタルデータはもちろん、食事や消費カロリーなどが記録されている。まだ幼いハルカには、特に僅かな異常も把握できるように、他の家族よりも性能のより良いデバイスを装着している。精度に狂いはない。サトミはアイコの回答にすっかり安心した。
「分かった。じゃあ予定通り今日はハルカは保育園休ませて、私は出勤するわ。あとのことはよろしくね」
アイコは、主治医に通信し、「平熱に戻るまでは、自宅療養が望ましい」旨の回答も得ていた。それを伝えようとしたが、消去した。
アイコは、「分かりました」と言うと、早速、ハルカの通う保育園に「ハルカ 欠席」の情報を送信した。
家族全員が出かけると、ちょうどハルカが目を覚ました。
アイコはハルカに「今日は、保育園は休みましょう」と伝えた。
「やだ。ほいくえんいきたい!」
「ハルカさん、保育園に行くと、大切なお友達に病気が移ってしまいますよ」
ぐずるハルカをなだめるのも、アイコの重要な役割だ。
「きょうは、ほいくえんで、おたんじょうびかいなの。イチゴのケーキがでるって、アレックスせんせいいってた。おうちから、おたんじょうびかいだけみるのはいいでしょ?」
アイコは、保育園のスケジュールを確認して言った。
「わかりました。お誕生日会の時間になったらバーチャル登園しましょう。ちゃんと朝ご飯とお薬食べてお休みしたら、です」
「はーい…」
なかなかこの歳の子供は素直に寝てくれない。保育園に行きたい思いが強いのか、元気になったというアピールをしてはベッドに送り返すというやりとりが繰り返される。窓から差し込む日差しが一層明るくなった頃にようやく寝ついたのを確認し、アイコは、洗濯、掃除などにとりかかった。
薬やアイコのサポートもあってか、再びハルカが目を覚ます頃には調子も戻り、お昼のうどんと野菜スープも完食した。ハルカは誕生日会は今か今かと目を輝かせている。
時間になると、アイコは、リビングの壁一面に保育園の様子を映しだすと、子ども達の元気な歌声と、ピアノの音が響いた。
「あっ、ハルカだ!おーーーーい、ハルカーーー」保育園の友達が、ハルカがバーチャル参加していることに気づいて、大きく手を振っている。
「やっほーーー。ユヅルくん、サツキちゃん、サラちゃんおめでと!」
ハルカも、風邪を引いたことをすっかり忘れて、大きく手を振った。歌ったり、ホログラムで映し出されたケーキのろうそくに息を吹きかけたり、バーチャル保育園を楽しんでいる。一緒にお祝いすることが出来て満足したようだ。
誕生日会が終わりに差し掛かった頃、アイコは、ハルカのバイタルデータから、薬が効いていることを確認する。また、昼寝に最も適した時間帯だと判断した。
「ハルカさん、保育園は終わりにしてお昼寝の時間にしましょう。完全に治して、明日直接おめでとうって伝えましょう」
「うんわかった!」、幸せ気分のハルカは素直に応じた。
部屋に戻ったハルカは、先週末、曾祖母のユキヨと遊んだ『バーチャル探検』のことを、思い出しながら眠りに落ちていった。
「私があなたくらいのときにはね、こんなきれいな景色は白黒の写真でしか見られなかったの」
魚とともに遊泳しながら、遠い目をしてなつかしそうにほほえむユキヨの表情を、ハルカは不思議そうに覗きこんだ。
「ふーん。なんで色ないの?」
生まれたときから仮想現実に慣れ親しんだハルカにとっては、奥行きのない画像、まして紙に印刷された白黒写真というものに違和感を感じる。
ユキヨは続けた。
「あなたの曾おじいちゃんはね、登山家だったの。山登りをするひとね。帰ってくるたびに私に写真を見せながら楽しそうに山の話をするのよ。いま考えればちっともきれいじゃなかったわ。それでも初めてカラー写真で山頂からの景色を見せてもらった時はあまりにもきれいで言葉も出なかったの…」
ハルカにとってはVRも所詮は現実を模したものに過ぎず、現実そのものではないという点で、ユキヨにとっての白黒写真と同じものなのかもしれない。
海中にいる二人は同じものを見ているが、その捉え方は決定的に違う。ユキヨが生まれた頃からさらに一〇〇年前と言えば江戸時代。当時多く残された静止画といえば、写真ではなく浮世絵等の絵画である。ユキヨの曾祖母が「富嶽三十六景」を、ユキヨが白黒写真を見るのと同じような感覚でハルカはこの海中の景色を見ているのかもしれない。
今や仮想現実で全てが体験できる。そしてそれらは視覚だけでなく、五感を通じて体験することができるものとなっている。ハルカにとってはそれが当然で、テクノロジーの進歩の恩恵である、などと今のハルカは思っていないだろう。しかし、だからこそハルカにとってはリアルが尊い。仮想現実で景色はもちろん、音も匂いも風も全てが限りなく現実に近い感覚で体験できるものの、生まれたときからそれらに触れていると、その違いは感覚的に分かるようだ。
海の中を浮遊する夢の中から帰ってきたハルカは、ふと散歩に行きたいと思った。
「ねえねえ、わたしおそとにいきたい。おさんぽがしたいの」
ハルカは散歩が好きだった。海底を探検するより空を飛ぶより、路地の水たまりで足踏みをし、蝶を追いかけて走り回る方が好きなのだ。
アイコはサトミに判断を仰ぐことにした。
「ハルカさんが散歩に出たいと言っています。体調の回復具合から考えると問題ないかと思いますが、いかがいたしましょうか」
「いまそこにハルカはいるの? いるならかわってちょうだい」
優しい声でサトミが尋ねた。
「ハルちゃん、今日はアイコと一緒にお留守番できた?」
「うん!おたんじょうびかいもたのしかった!」
「そう。じゃあ熱も下がっているようだし、ご褒美にお散歩してもいいわ」
「やったー、ありがと、ママ!」
サトミは、自身が幼い頃に、働く両親に代わって終日留守番をさせられていたことを思い出した。アイコには感謝してもしきれない。三年前に自分たちで購入したにもかかわらず、アイコの存在に感謝している自分に気づき、一人職場でおかしな気持ちになった。
「それではハルカさん、出発しましょう」
「しゅっぱーつ」
散歩のコースはいつもと変わらぬ近所の公園だ。そこでいつもと変わらずアイコと遊ぶ。近くではハルカと同じくらいの子どもたちがドローンを戦わせて遊んでいる。
一方で、今日のハルカの主な関心事はドングリのようである。
「あったー、帽子かぶってるやつ!」
一生懸命形のきれいなドングリを探し、拾ってはアイコに見せている。二一世紀も中盤にさしかかろうとしているが、昔と変わらぬ子どもの姿がそこにはあった。
「お母さん帰ってきたらみせてあげよーっと」
一通り美しいドングリを集めきって満足し、ドングリをサトミに見せるため、帰り道は足早に家へと向っていった。
「ハルカさん、そんなにここを急いでも、まだサトミさんは家に帰ってきていませんよ」
四人家族揃ってご飯を食べた後、急に眠気に襲われたハルカは、お風呂に入る前にリビングでうとうとしてしまい、寝てしまった。
「ふふふ、今日はいっぱい歩いて疲れたみたいね」
「いつもよりいっぱいご飯食べててびっくりしたよ。今日はハルカとどんなところをお散歩したんだい?」
ケンスケがアイコに尋ねると、アイコは今日たどった道の一部始終をホログラムでリビング一杯に映し出した。
「へぇードングリを拾いにこんなとこまで今日は行ったのか…。どのくらい歩いたんだい?」
「本日は約二キロ、時間にして四五分、歩きました。ハルカさん、歩行速度や歩幅が、六歳児並みになってきました」
「そんなに歩いたのね。こんなにぐっすり眠るのも納得だわ」
アイコにはハルカが産まれてからの運動記録が全て入っている。
「寝ながら笑ってるよ。どんな夢みてるんだろう」
「ちょっと覗いてみましょうか?」
「え!? そんなこともできるの?」
サトミが驚きを隠せずたまらず立ち上がった。
「出来ません」
アイコは冗談も言える。
この章に登場した未来の姿
いつでもドクター
家でも街中でもインプラント端末やセンサーで健康管理をサポート。異変があればAIで簡単な診断を行い、専門医が早期に超低侵襲治療。